top of page

観能録〈大江山〉

  • 執筆者の写真: cocon
    cocon
  • 2024年8月16日
  • 読了時間: 10分

更新日:2024年8月21日

2024年7月7日 石川県立能楽堂 金沢能楽会定例能の観能記録です。

みて考えたこと(例によって演目の話)中心。


あらすじ

源頼光(ワキ)、藤原保昌、その郎党ら(ワキツレ)は、「鬼神」・酒呑童子討伐の勅命を受けて、山伏の姿で大江山に踏み入る。途中、宿探しに出された下人(アイ)は、そこで酒呑童子に仕える洗濯女(アドアイ)と遭遇する。女の手引きで酒呑童子のもとに辿り着いた頼光たちは、出家に手を出さぬと誓っているという童子にもてなされ、盃を交わす。童子は一行の態度にすっかり相好を崩し、鬼と思うな、「興がる友」と思ってくれよとまで言い、そのうち酔いも回って寝所へ下がる(中入)。下人は洗濯女と連れ立って先に都へ帰り(間)、頼光らは武装して童子の寝所へ押し入る。そこには鬼神の姿を顕わした酒呑童子がおり、頼光らの裏切りに怒る。死闘を繰り広げた後、頼光一行は酒呑童子を討ち果たし、都へと帰ってゆく。


大一番を横から見せる舞台演出

今回は宝生流での上演を見たが、舞台演出で他の能では見たことのない道具の配置変更を見た。後場の開始前に、正面に出されて前シテの座っていた一畳台が、ワキ方の着座するあたりに、見所へ短辺を向ける形で設置されたのだ。後場では一畳台の上に置かれた山の作り物から後シテが登場するが、この配置だと、登場するシテを、正面の観客は横から見ている構図になる。具体的に言うと、橋掛かりに頼光(一番シテから遠いのは、大将格であると示すため?)、舞台中央にワキツレ3人(みんな抜刀して後シテの方をにらむ)、ワキ方の着座位置に一畳台があり、その上に後シテ(正面からみると横向きに立っている)、と言う具合だ。橋掛かりまで使用したこの場面は、大人数の演目であることも相俟って、とても見ごたえがあった。

他流の演出を少し調べると、一畳台は普通に正面に置かれるようだ。(また、前場は一畳台でなく鬘桶にシテが座っていた)宝生流〈大江山〉における一畳台の使い方が特殊なものなのか、〈大江山〉に限った演出なのか、そうでないのか。また、これはいつ頃からの演出なのか?いろいろと疑問は尽きないが、いずれにせよ、能は”真正面の観客(=最も位の高い方)”が、”立体的に物語を楽しむ”ことを追求した芸術なのだと改めて感じる舞台だった。

また、金沢で〈大江山〉というのはかなり久しぶりな気がするが、それだけワキ方の人員が充足してきたということだよなあ…と感慨深く舞台を拝見した。もう十年以上ここでの能を見ているが、自分と同世代やその下のワキ方、狂言方の演者さんがぽつぽつと出てきては、皆さん活躍されているので、すごく好ましく思う。


鬼ではなく鬼神の物語

〈大江山〉の詞章に、「鬼」という字は十六回ほど出てくるが、このうち明確に酒呑童子を指す場合は、必ず「鬼神」という表現になっている。

本曲の有力な典拠とされる現存最古の大江山絵巻:香取本『大江山絵詞』(逸翁美術館蔵)において、酒呑童子は「鬼王」と呼称され、その様子は「誠にかしこく、智ゑふかけ」(※1)とまで描写されている。これらの事実からも、そもそもこの物語世界において、酒呑童子はやはり単純な「鬼」として造型されていない、と言えるのではないか。この点から、謡曲〈大江山〉は単純な「鬼」ではなく、「鬼神」の物語として扱うべき作品だと考える。今回細かい調べは行ってないが、例えば詞章内で「鬼神」と称される鬼たちとの比較検討は行ってみる価値があるように思う。

本作の中で、人間側の騙し討ちに怒った酒吞童子の言葉に「鬼神に横道なきものを」というものがある。この言葉は、『徒然草』の二百七段に類似表現がみえるものの(※2)、前述の香取本『大江山絵詞』には見られない。『徒然草』そのものかどうかはさておき、能作者が絵巻以外に様々な典籍を渉猟し、要素を濃縮して作能したということだろう。

しかし、鬼神の性質をこれほど端的に、美しく表現を取り入れたことは、謡曲〈大江山〉が現代まで演じられ続けてきた一因にもなっていると思う。実際、謡曲〈大江山〉より後の時代の作と考えられる酒呑童子物語・絵巻にはこの言葉が散見するし、能においても世阿弥作〈野守〉に「さてこそ鬼神に横道を正す。明鏡の宝なれ」の詞章がある(この曲では、野守の鏡=鬼神の鏡の性質を示すために用いられているのも興味深い)。さらに時代は下るが、泉鏡花の『草迷宮』にも出るのは、言うまでもなく謡曲の影響であろう。


(※1)香取本『大江山絵詞』の詞書については、鈴木哲雄「「大江山絵詞(酒天童子絵巻)」の詞書釈文 ―逸翁美術館本と陽明文庫本との比較を兼ねて ―」を参照した。(『都留文科大学研究紀要』(91)31-48, 2020-03-01)

(※2)「王土にをらん虫、皇居を建てられんに、何の祟りをかなすべき。鬼神はよこしまなし。咎むべからず。たゞ、皆掘り捨つべし」という表現がある。


大活躍の「独武者」とその創造

謡曲〈大江山〉において特に活躍するのは、ワキツレの「独武者」である。鬼退治を命じられた一行は、詞章の中で総勢「五十余人」とされるが、具体名が出るのは頼光と保昌、頼光の郎党である四天王(貞光、季武、綱、公時)、そして最後に「独武者」だ。この呼称は当然本名ではなく、剛の者と示すための通称である。

拝見した舞台では、姿を現した後シテ(鬼神)と最初に対峙するのが、この「独武者」だった。彼は、人間の裏切りに怒る酒呑童子に向かい、「土も木も我大君の国なれば。いづくか鬼の宿りなるらん」と、有名な和歌(※1)に基づいた詞章を口にする。「保昌が館に独武者」という名乗りの通り、本曲において保昌の郎党にすぎない彼が、なぜ見せ場の中心に据えられているのだろうか。

実はこの「独武者」、〈大江山〉だけでなく〈土蜘〉にも登場し、そちらでは病に臥せる頼光を援けて土蜘蛛の精を撃退する。「独武者」はこの際にも、「土も木も我大君の国なれば。いづくか鬼の宿りなる」と〈大江山〉とほぼ同文を述べている。〈土蜘蛛〉は〈大江山〉を承けた作であろうが、「独武者」という登場人物と「土も木も…」の詞章が共に流用されたことこそ、〈大江山〉の見せ場が「独武者」のものとなった理由を端的に示しているように思う。

前述の通り、「独武者」という名は、通称にすぎず、個人を特定しない。また彼は、〈大江山〉では保昌、〈土蜘蛛〉では頼光の郎党として登場する。郎党、つまり末端の人間が、対峙する相手に対し、「土も木も…」の歌を引いて王権支持の姿勢を見せることは、王権の及ぶ範囲の隈なきことを示す、歌の内容にかなうものであろう。頼光・保昌を援ける「独武者」の姿は、作能当時の観客側の中心だったであろう為政者たちとっては、理想的な姿だったのではないか。先陣を切って鬼神と向き合い、頼光を援け、国土安穏のために働く屈強な郎党。「独武者」の存在はその理想を描き出しているのではないだろうか。

ちなみに、「独武者」の素性は長らく不明とされていたが、小林健二氏によって、「能の世界で創造された人物ではなく、典拠とした香取本『大江山絵詞』にすでにあったキャラクター」であり、かつ、「太宰少監(清少納言の兄:清原致信)」という実在の人を基に、様々な記録や説話物語を経由して語り継がれる中で生まれたものである可能性を指摘されている(※2)。小林氏はこの例を「能《大江山》が、多くある酒呑童子物語の諸本の中から香取本に拠って作られたことを、あらためて補強する材料」だと述べている。

いずれにしても、勅命を承けた者ではなく、その郎党が活躍するというつくりには、何かしらの意図が介在しているものではないかと思う。


(※1)この歌は、『太平記』第一六巻「日本朝敵事」において、藤原千方および彼の率いる鬼たちを討伐に向かう紀朝雄の詠んだとされる「草も木も我が大君の国なれば いづくか鬼の棲なるべき」に基づく。この歌の利用は、〈田村〉〈土車〉でもみられる。

(※2)小林健二「能《大江山》と「大江山絵詞」」『国文学研究資料館紀要』(35)55-80, 2009-02-27


〈大江山〉の中の”安達原”

山伏(実は頼光)一行を歓迎する宴の中で、酒吞童子は「忍び隠れて住む自分を童形ゆえに憐れんで、どうかこの場所を他言しないように」と願い出る。その後の詞章に、安達原の名前が登場していた。


地「陸奥の。安達が原の塚にこそ。〳〵。鬼こもれりと聞きし物を。誠なり〳〵。こゝは名を得し大江山。幾野の道は猶遠し。天の橋立よさの海。大山の天狗も。我にしたしき。友ぞと知ろしめされよ。いざ〳〵酒を飲まうよ。〳〵。」

〈黒塚(安達原)〉の最古の演能記録は、〈大江山〉よりも40年ほど下るが(※)、謡の中で鬼の住処の譬えとして登場しており面白い。もとの歌が「鬼こもれりと聞くは”まことか”」であることを承けて、安達原を鬼の住処と聞くことは「”誠”なり」と言う。この直後、〈大江山〉の酒呑童子は、大江山は鬼の住処ではないーつまり、逆説的に自分自身は鬼のように恐ろしい存在ではない、と暗示する。この部分については、かなり謡曲独自の性格設定がなされているように思うが、それはまた別の機会にまとめたい。

兎にも角にも謡曲〈大江山〉成立期には、すでに安達原の古歌と共に、黒塚の鬼伝説はかなり人口に膾炙していたと思われる。


(※)〈大江山〉は、応永三十四年(1427)の大乗院別当坊猿楽の記録にみえる(この際の記録名は〈酒呑童子〉)。〈黒塚(安達原)〉は現状、寛正六年(1465)将軍院参の際に観世座によって演じられたものが最古とされる(この際の記録名は〈黒塚〉)


能における「通力」の扱われ方

酒呑童子は、ワキ一行を歓待する中で「今客僧達に見顕はれ申し。通力を失ふばかりなり」と発言する。住処を見顕されたことを、通力を失うほどに手痛いことと述べているのだが、なぜ見つかることは通力を失うことと同等に扱われているのか。

人との関わりの結果通力を失う者として、まず禅鳳作の〈一角仙人〉が思い出される。一角仙人は美女に惑わされて通力を無くすが、通力を失うことを、「人間に交り心を迷はし。無明の酒に酔ひ伏して。通力を失ふ天罰」としている。謡曲〈大江山〉より後の作であるものの、元となる説話は『今昔物語集』などにも見られる古いものだ。また、類話に久米仙人(こちらは女の脛を見て通力を失う)の話もあり、これも古来有名な説話である。また、伊弉諾伊奘冉の冥界訪問も、姿を見顕されたことで状況は一変する。なんとなくではあるが、”見るー見られる”という行為に係る一連の説話の存在が、酒呑童子の一言を下支えしているように思われる。

ちなみに、『大江山絵詞』では、神仏らが頼光一行を様々に援け、退治までの過程で童子の通力を恐れなくて済む状況を作り出してゆくが、謡曲〈大江山〉はそのあたりを一切省略している。しかしながら、謡曲においても、酒呑童子の通力の強大さは前場で存分に触れられており、物語の根幹を為すものであるため、その存在を省くわけにはいかない。そこで〈大江山〉においては、神仏の加護以外の方法で、童子の通力の弱まりを表現する必要があったのではないか。そのために、ワキ一行に住処を見顕わされたことが、通力の喪失に匹敵するダメージであるというような表現を取り入れたのではないだろうか。

謡曲は、典拠にみえる神仏の加護を省き、勅命を遵守する武人たちによる武力での討伐譚へと単純化した。その過程で失われたものが神仏の加護だとすれば、付加されたのは何であるか?

やたらと長くなってしまったので、その内容についてはきちんと検討して別記事でまとめられたらと思う。


おまけ:今回の番組 ―組み合わせの面白さー

今回の定例能では、〈花月〉と〈大江山〉の二番が同時上演された。ぼんやり謡を聞いて居ると、両者には山廻りという共通点があることに気付く。〈大江山〉で酒呑童子が廻った山々は、〈花月〉で天狗に連れられた花月が巡った山とも重なる。両方の謡を聞いて、改めて天狗や酒呑童子と呼称された存在が、一体どようなものだったかということを考えさせられた。(もちろん、結論が出る話題ではないのだが…)

参考に、当該箇所の詞章を下記に引いておく(※)


花月:七歳で天狗に攫われて以降、連れまわされての山廻り。

まづ筑紫には彦の山。深き思ひを四王寺。讃岐には松山。降り積む雪の白嶺。さて伯耆には大山。〳〵。丹後丹波の境なる。鬼が城と聞きしは。天狗よりも恐ろしや。さて京近き山々。〳〵。愛宕の山の太郎坊。比良の峰の次郎坊。名高き比叡の大嶽に。少し心の住みしこそ。月の横川の流れなれ。日頃はよそにのみ。見てや止みなんとながめしに。葛城や高間の山。山上大峰釈迦の嶽。富士の高嶺にあがりつゝ。雲に起き臥す時もあり。

大江山:比叡山を追い出された後、安住の地をさがして山廻り。

シテ「飛行の道に行脚して。ワキ「あるひは彦山。 シテ「伯耆の大山。ワキ「白山立山富士の御嶽。 シテ「上の空なる月に行き。ワキ「雲の通路帰り来て。シテ「猶も輪廻に心ひく。ワキ「都のあたり程近き。 シテ「此大江の山に籠り居て。ワキ「忍び〳〵の御住居。

(※)両文とも、詞章は無辺光様サイトより引用させていただきました。


月岡耕漁/能楽図絵「大江山」

(AcNo.: arcUP1019、Copyright © 立命館ARC. All Rights Reserved.)

ree

コメント


bottom of page